奈良時代の国際交流とは?遣唐使を現代の留学制度に例えて解説

仕組み図解

「昔の遣唐使って何?」「なんで危険を冒してまで海外に行ったの?」と疑問に思ったことはありませんか?実は遣唐使は、現代の海外留学や企業の海外研修に驚くほど似ているんです!

この記事でわかること

  • 遣唐使の役割と目的が現代の海外派遣とどう似ているか
  • 奈良時代の国際交流がいかに現代のグローバル化と共通点を持つか
  • 命がけの渡航が行われた本当の理由と日本に与えた影響

読むのに必要な時間:約7分

遣唐使って何?現代で例えると?

一言まとめ:遣唐使は国家公式の「海外派遣団」で、現代の国費留学生や企業の海外研修チームのような存在でした。 

遣唐使とは、日本から中国(唐)へ派遣された公式使節団のことです。今で言えば、どんな存在なのでしょうか?

現代で例えると「国費で派遣される海外留学生」と「政府の公式外交団」を合わせたような存在です。

文部科学省が派遣する国費留学生や、JICAの海外研修員、外務省の外交官などを一つの使節団にまとめたイメージですね。

遣唐使は630年から894年までの約260年間に、合計16〜18回ほど派遣されました。

特に奈良時代(710〜794年)は海外との交流が盛んで、当時の日本のグローバル化を支えていたんです。

豆知識:「遣唐使」という名前は中国に派遣されたから「遣唐使」。同じように朝鮮半島の新羅に派遣された「遣新羅使」や、インドに派遣しようとした「遣天竺使」の計画もありました。当時の日本は東アジアだけでなく、もっと広い世界とつながろうとしていたんです!

ここまでのポイント

遣唐使は現代の国際交流団や留学生のように、国家の将来のために知識や技術を学びに行った公式使節団でした。

なぜ命がけで海を渡ったの?

一言まとめ:当時の最先端技術・制度・文化を学ぶため、現代企業が新技術を求めてシリコンバレーに社員を派遣するように、国家の発展のために必要だったのです。

当時の日本から中国への渡航は、遭難率が約30%もある危険な旅でした。

それでも遣唐使が派遣され続けたのはなぜでしょうか?

唐(中国)は当時の世界最先端の文明国だったからです。

現代で言えば、IT企業がデジタル技術を学ぶためにシリコンバレーに社員を派遣するようなもの。

あるいは、医学生が最先端医療を学ぶためにアメリカやヨーロッパの有名病院で研修するようなものです。

具体的に日本が欲しかったものは

  • 政治制度(律令制度)→ 現代の行政システムや法律体系
  • 仏教の最新知識 → 現代の最先端学術研究や哲学
  • 建築技術 → 現代の建築工学や都市計画
  • 文化・芸術 → 現代のデザインやエンターテイメント産業

現代企業が「技術的負債」を解消するために新技術導入を急ぐように、当時の日本も国際競争に勝つために先進技術の導入を急いでいた>のです。

豆知識:遣唐使船に乗った人の中には、帰国後に出世する人が多くいました。現代でいう「海外MBA取得者」や「外資系企業経験者」のように、帰国後のキャリアアップにつながったんです。例えば、吉備真備は唐から帰国後、朝廷で重要なポストに就きました。

ここまでのポイント

命がけの旅も、国家の発展と個人のキャリアアップのために価値があったのです。

遣唐使の旅はどんな感じ?今の海外出張と比べると

一言まとめ:現代の10時間のフライトが、当時は片道3〜4ヶ月という超長距離出張で、滞在も2〜3年と現代の海外赴任レベルでした。 

遣唐使の旅程を現代の海外出張と比べてみましょう。

項目遣唐使(奈良時代)現代の海外出張
移動手段木造船(30〜40m程度)旅客機(全長60〜70m)
移動時間片道3〜4ヶ月成田→北京 約4時間
危険度非常に高い(遭難率約30%)非常に低い(航空事故率は0.0001%以下)
同行者数約500人(複数船に分乗)1人〜数人のチーム
滞在期間1〜3年数日〜数週間
費用国家予算の大部分会社の出張予算内

現代のビジネスマンが出張前に航空券やホテルを予約するように、遣唐使も事前に船を建造し、航路を調査し、外交文書を準備していました

でも規模が全然違います!

現代の海外出張は「行ってきます!」と言って数日後には戻ってくるのに対し、遣唐使は「ご武運を」と見送られ、数年後に「生きて帰れました!」というレベルの大事業だったのです。

豆知識:遣唐使船は原則的に4隻の船団で航海し、それぞれに「第一船」「第二船」といった番号が付けられていました。現代の修学旅行でよくある「1班、2班…」のように分かれていたんですね。それぞれの船には、留学生・学問僧・技術者など役割が異なるメンバーが分散して乗っていました。

ここまでのポイント

遣唐使の旅は現代の感覚では想像できないほど長く危険なものでしたが、組織的にきちんと計画されていました。

遣唐使が持ち帰ったものって?

一言まとめ:最新技術から流行ファッションまで、まさに「買い物リスト」を持った海外視察団のように、目的を持って様々なものを持ち帰りました。

遣唐使が日本に持ち帰ったものを、現代の例で考えてみましょう。

国家の制度設計図(律令法典)

  • 現代例:先進国の行政システムや法律体系のコピー

最先端の知識・技術(医学、天文学、建築技術)

  • 現代例:AIやクリーンエネルギー技術の導入

文化・芸術(音楽、絵画、文学)

  • 現代例:海外の映画やアニメ、音楽の輸入

流行のアイテム(唐風の衣装、調度品)

  • 現代例:海外ブランド品や最新トレンドの取り入れ

現代企業が海外視察で「これは使える!」と思ったアイデアを持ち帰るように、遣唐使も「日本に導入すべき」と思った文化や技術を選んで持ち帰っていました

豆知識:平城京の都市設計は、唐の都「長安」を参考にしていました。これは現代で言えば、ニューヨークやパリの都市計画を参考に東京を設計するようなものです。当時から「先進事例の視察→自国での応用」という流れがあったんですね!

ここまでのポイント

遣唐使は単なる親善大使ではなく、国家発展のための具体的な「ショッピングリスト」を持った戦略的な使節団でした。

SNSで例える遣唐使の情報収集術

一言まとめ:現代のSNSやブログ収集のように、多様な情報源から幅広く情報を集め、日本に伝えるメディアの役割も果たしていました。 

遣唐使の情報収集方法は、現代のSNSやメディアと比較できます。

長安(現在の西安)での生活は、現代の人がニューヨークやパリに住んでインスタグラムに現地情報をアップするような感覚だったかもしれません。

  • 留学生の記録 → 現代のブログや留学体験記
  • 僧侶の記録 → 専門家のTwitter発信や学術論文
  • 使節団の公式記録 → 公式プレスリリースやニュース報道

特に、円仁の「入唐求法巡礼行記」のような旅行記は、現代のトラベルブログのような役割を果たしていました。

現地の様子や文化の違いを詳細に記録し、読者(朝廷や他の知識人)に伝えていたのです。

豆知識:遣唐使の一員だった阿倍仲麻呂は唐に渡った後、中国政府の高官になり帰国しませんでした。現代で言えば「シリコンバレーに研修に行ったエンジニアがGoogleに引き抜かれて現地就職した」ようなケースです。当時から「国際的人材の流動性」があったんですね。 

ここまでのポイント

遣唐使は情報収集と発信の両方を担い、奈良時代のメディア的な役割も果たしていました。

遣唐使が日本に与えた影響とは?

一言まとめ:現代のグローバル化と同じく、外国文化の取り入れと日本独自のアレンジが行われ、「国際化」と「国家アイデンティティの確立」が同時に進みました。

遣唐使がもたらした影響は、現代のグローバル化による影響と似ています。

  1. 先進技術の導入
    • 現代例:海外IT技術や医療技術の導入
  2. 文化的多様性の増加
    • 現代例:様々な国の料理や音楽が日本に入ってくること
  3. 国際的な視野の拡大
    • 現代例:海外ニュースやSNSを通じた世界観の拡大
  4. 日本独自のアイデンティティ形成
    • 現代例:グローバル化の中での「クールジャパン」のような独自文化の再評価

現代の日本企業が海外技術を「日本流」にアレンジするように、奈良時代も唐の文化を単に真似るだけでなく「日本化」していきました

これが平安時代以降の「国風文化」につながっていくのです。

遣唐使の廃止(894年)後は、日本独自の文化発展が加速しました。

これは現代で言えば、「海外留学経験を活かしつつ、日本らしさを大切にした新しいビジネスモデルを作る」ような感覚でしょうか。

豆知識:最後の遣唐使は菅原道真の提言により中止されました。理由は「危険な航海の割に得られる新しい情報が少なくなった」から。現代で言えば「もうオンラインで情報収集できるから、わざわざ高いお金をかけて海外視察に行く必要がない」と判断したようなものです。コスパを考えた政策転換だったんですね! 

まとめ

まとめると…

  • 遣唐使は現代の国費留学生や企業研修のような「知識技術獲得」が目的だった
  • 命がけの3〜4ヶ月の航海と1〜3年の滞在は、現代の海外赴任よりもはるかに大変だった
  • 遣唐使がもたらした文化・技術・制度は、日本の基礎を形作った
  • グローバル化と国家アイデンティティの形成という、現代日本と共通する課題があった
  • 情報収集とその発信という点では、現代のメディアやSNSに通じる役割も果たしていた

奈良時代の遣唐使は、現代の海外留学や研修と目的も役割も似ていました。

違いは、その過酷さと国家戦略としての重要性の大きさです。

今、私たちが当たり前のように享受している「海外の文化や技術」は、1300年以上前から、命がけで海を渡った先人たちの努力によってもたらされました。

現代のグローバル社会を生きる私たちも、彼らの国際交流精神から学ぶことがたくさんあるのではないでしょうか。

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