町奉行とは?今で言うと何?南町・北町奉行の役割と与力との違い

江戸時代の時代劇に登場する「町奉行(まちぶぎょう)」。

大岡越前や遠山の金さんのように、お白洲で事件を裁く姿を思い浮かべる人も多いでしょう。

しかし、実際の町奉行は、裁判をするだけの役職ではありませんでした。

「町奉行は今で言うと警察署長?」

「南町奉行と北町奉行は何が違うの?」

「与力や同心とは、どのような上下関係だったの?」

結論からいうと、江戸の町奉行は、現代の行政責任者・警察幹部・裁判官の役割を併せ持つような、幕府の重要な役職でした。

江戸の町人地の行政や治安、裁判などを幅広く担当し、町奉行所の与力や同心を統括していました。

ただし、現在の都知事や警視総監、裁判官のいずれか一つと同じ役職ではありません。

この記事では、町奉行の仕事内容、南町奉行と北町奉行の違い、与力・同心との関係、給料や役高、時代劇で知られる人物まで、現代の仕事と比較しながら解説します。

  1. 町奉行とは?今で言うと行政・警察・裁判の責任者
    1. 現代の都知事・警視総監・裁判官に似た役割
    2. 老中のもとで働く幕府の役職だった
  2. 南町奉行と北町奉行は何が違う?
    1. 南町奉行と北町奉行は地域を南北に分けていなかった
    2. 一か月交代の月番制で仕事を分担した
    3. 商業分野では担当する業種が分かれていた
    4. 一時期は中町奉行所も存在した
  3. 町奉行はどんな仕事をしていた?主な6つの役割
    1. 1. 町の行政を統括する
    2. 2. 犯罪の取り締まりを行う
    3. 3. 裁判や訴訟を扱う
    4. 4. 商業や物価に関する政策を実施する
    5. 5. 防火や火消しの管理に関わる
    6. 6. 災害時の救済や生活支援に関わる
  4. 町奉行はどこまで担当した?江戸の支配区域と限界
    1. 町奉行が主に担当したのは町人地
    2. 江戸の町は時代とともに広がった
    3. 町奉行だけで江戸のすべてを統治していたわけではない
  5. 町奉行所は少人数でどう江戸を管理した?組織の仕組み
    1. 与力・同心が奉行所の実務を担当した
    2. 町年寄・名主・月行事が町の運営を支えた
    3. 町人地の行政は地域の人々との分担で成り立っていた
  6. 町奉行の給料はいくら?役高3000石の意味
    1. 1723年以降の役高は3000石だった
    2. 3000石を米の量に換算すると
    3. 家禄・役高・役料は区別する必要がある
  7. 有名な町奉行は誰?大岡越前と遠山の金さん
    1. 大岡越前|大岡忠相は実在した南町奉行
    2. 遠山の金さん|遠山景元は北町・南町の両方を務めた
    3. 時代劇の町奉行と実際の仕事は違う
  8. 町奉行とほかの奉行は何が違う?
    1. 町奉行|江戸の町人地を担当
    2. 寺社奉行|寺院や神社に関する行政を担当
    3. 勘定奉行|幕府の財政や直轄地の行政を担当
    4. 三奉行の違いを比較
  9. 町奉行についてよくある質問
    1. 町奉行とは簡単に言うと何?
    2. 町奉行は今で言うと何?
    3. 南町奉行と北町奉行はどちらが偉い?
    4. 南町奉行と北町奉行は担当区域が違ったの?
    5. 町奉行と与力はどちらが上?
    6. 町奉行の給料は何石?
    7. 町奉行は何人いたの?
    8. 大岡越前は本当に町奉行だったの?
    9. 遠山の金さんも町奉行だったの?
    10. 町奉行は江戸にしかいなかったの?
  10. まとめ|町奉行は江戸の行政・裁判・治安を担った重要な役職
  11. 参考資料

町奉行とは?今で言うと行政・警察・裁判の責任者

町奉行とは、江戸幕府の都市行政や裁判などを担当した役職です。

一般に「町奉行」といえば、江戸の町政を担当した江戸町奉行を指すことが多くあります。

ただし、京都や大坂などにも町奉行が置かれていました。

この記事では、主に江戸の町奉行を取り上げます。

現代の都知事・警視総監・裁判官に似た役割

江戸町奉行は、現在の東京都の行政機関、警察、裁判所などが分担する仕事の一部を、一つの役所で担当していました。

町奉行の仕事現代の役割に例えると
町の行政を統括自治体の行政幹部
犯罪の取り締まり警察の幹部
訴訟・刑事事件の裁判裁判官
商業に関する規制行政の監督部門
防火や町火消の管理防災・消防行政の担当
与力・同心の統括役所や警察の組織責任者

※現代の仕事との機能上の比較です。江戸時代と現代では権限や法制度が大きく異なります。

町奉行は単なる警察署長ではなく、江戸の町人社会を統治する重要な役職だったのです。

老中のもとで働く幕府の役職だった

江戸町奉行は、幕府の老中の支配に属する役職でした。

老中は、江戸幕府の政治を支える重要な役職です。

町奉行は老中のもとで、江戸の町方に関する行政や司法、警察の業務を担当しました。

また、町奉行は寺社奉行・勘定奉行とともに「三奉行」と呼ばれました。

三奉行は、幕府の重要な政治・司法上の審議を行う評定所にも関わっていました。

このように、町奉行は地域の町政だけでなく、幕府の行政制度の中でも重要な立場にあったのです。

南町奉行と北町奉行は何が違う?

江戸には、南町奉行所と北町奉行所という二つの奉行所がありました。

名前だけを見ると、江戸の南側と北側を分担していたように感じるかもしれません。

しかし、実際にはそのような単純な仕組みではありませんでした。

南町奉行と北町奉行は地域を南北に分けていなかった

南町奉行所と北町奉行所は、原則として江戸の町人地全体を管轄していました。

南町奉行所が南側の町だけを、北町奉行所が北側の町だけを担当していたわけではありません。

この点は、現在の警察署が地域ごとに担当区域を持つ仕組みとは異なります。

南町・北町という名前は、奉行所の所在地に由来します。

一か月交代の月番制で仕事を分担した

南町奉行所と北町奉行所では、原則として一か月交代の「月番制」が採用されていました。

例えば、ある月に北町奉行所が新しい訴訟を受け付けた場合、翌月は南町奉行所が受付を担当します。

ただし、非番となった奉行所が休みになるわけではありません。

前月に受け付けた訴訟の審理や、継続中の事務などを担当していました。

月番の例北町奉行所南町奉行所
4月新規の訴訟などを受け付ける継続案件の処理など
5月継続案件の処理など新規の訴訟などを受け付ける
6月新規の訴訟などを受け付ける継続案件の処理など

※月の並びは制度を説明するための例です。実際の特定年の担当月を示したものではありません。

つまり、南町奉行所と北町奉行所は、交代しながら江戸の町政を担当していたのです。

商業分野では担当する業種が分かれていた

月番制で仕事を交代する一方、商業に関する一部の業務には、南北の奉行所で分担がありました。

歴史学者・山本博文氏の解説によると、書物・酒・廻船などは北町奉行所、呉服・木綿・薬種問屋などは南町奉行所が担当しました。

つまり、すべての仕事を毎月交代していたわけではありません。

業務の性質によって、担当が決められているものもあったのです。

一時期は中町奉行所も存在した

江戸の町奉行所は、常に南町と北町の二つだけだったわけではありません。

1702年(元禄15年)から1719年(享保4年)までは、中町奉行所も置かれていました。

この期間は、町奉行が3人いる体制でした。

ただし、その後は南北2人を基本とする仕組みに戻りました。

このため、時代によって町奉行所の数や組織には違いがあったことにも注意が必要です。

町奉行はどんな仕事をしていた?主な6つの役割

町奉行の仕事は、犯罪者を裁くことだけではありません。

江戸の町を維持するために、行政・司法・治安・商業・防火など、さまざまな業務を担当していました。

主な仕事を6つに分けて見ていきましょう。

1. 町の行政を統括する

町奉行は、江戸の町人地の行政を担当しました。

町の運営に関する命令や規制を出し、町年寄や名主などを通じて住民へ伝えました。

このような町に出される命令は「町触(まちぶれ)」と呼ばれます。

ただし、町奉行がすべての住民へ直接命令を伝えていたわけではありません。

町の自治的な組織が、行政を支えていました。

2. 犯罪の取り締まりを行う

町奉行所は、江戸の町人地で起こる犯罪の取り締まりにも関わりました。

窃盗や暴力事件などに対応し、与力や同心が捜査や取り調べを担当しました。

ただし、現在の警察と同じ制度ではありません。

江戸時代には、犯罪の捜査と裁判が、現代のように別々の機関で明確に分かれていたわけではなかったためです。

3. 裁判や訴訟を扱う

町奉行所は、江戸の町人地に関係する訴訟や裁判を扱いました。

時代劇で知られる「お白洲」の場面は、この役割に関係しています。

ただし、すべての事件で町奉行本人が直接取り調べをしていたわけではありません。

実際には、与力や同心が書類の作成や取り調べなどの実務を担当していました。

また、町奉行だけでは処理できない重要な事件は、評定所などで扱われる場合もありました。

4. 商業や物価に関する政策を実施する

町奉行は、江戸の商業に関係する規制や取り締まりにも関わりました。

江戸には商人や職人が多く集まっており、商品の流通や販売に関する問題が起こることもありました。

町奉行所は、幕府の方針に基づき、商業に関する取り締まりや命令を実施しました。

ただし、現代の経済産業省や公正取引委員会と同じ制度だったわけではありません。

町奉行の仕事は、江戸幕府の支配制度の中で行われていたのです。

5. 防火や火消しの管理に関わる

江戸は木造家屋が密集する地域が多く、火災の被害が大きくなりやすい都市でした。

そのため、防火や火消しも重要な行政課題でした。

町奉行所には、町火消に関わる業務を担当する役人がいました。

例えば、町火消人足改などが、町火消の管理に関わりました。

また、大火の後には被害への対応や町の再建など、行政上の仕事が必要になりました。

6. 災害時の救済や生活支援に関わる

江戸の町奉行所は、災害時の対応や生活に困る人々への支援にも関わりました。

代表的な政策として知られるのが、小石川養生所の設置です。

1722年(享保7年)、8代将軍徳川吉宗の時代に設置され、医療を受けにくい人々の救済に関わりました。

大岡忠相は、町奉行として、このような享保の改革期の都市政策に関わっています。

ただし、現代の病院や福祉制度と同じ仕組みだったわけではありません。

江戸幕府の政策として行われた救済事業だったのです。

町奉行はどこまで担当した?江戸の支配区域と限界

町奉行は江戸の重要な役職でしたが、江戸全体を一人で自由に統治していたわけではありません。

江戸には、町人地・武家地・寺社地などがあり、それぞれ異なる支配の仕組みが存在しました。

町奉行が主に担当したのは町人地

東京都公文書館によると、江戸の土地は、大きく町地・武家地・寺社地などに分かれていました。

町奉行が主に支配したのは、町人が生活する町人地です。

一方、武家地は大目付・目付などの系統、寺社地は寺社奉行の管轄でした。

そのため、町奉行を現在の東京都知事と完全に同じ立場と考えることはできません。

江戸の土地の種類主な支配・管理
町人地町奉行
武家地大目付・目付などの系統
寺社地寺社奉行など

※実際の事件や職務によって関係する機関が異なることもあり、すべてを単純に区分できるわけではありません。

江戸の町は時代とともに広がった

江戸の町は、幕府が開かれた当初から同じ範囲だったわけではありません。

都市の発展に伴って、町人地も広がっていきました。

東京都公文書館によると、町奉行の支配区域は時代とともに拡大しました。

また、江戸の範囲には複数の考え方があり、現在の東京都の行政区域のように一つの明確な境界で示せるものではありませんでした。

そのため、町奉行が担当した「江戸」を考える際には、どの時代の範囲なのかにも注意が必要です。

町奉行だけで江戸のすべてを統治していたわけではない

江戸には、将軍や幕府の役人、大名、商人、職人など、さまざまな立場の人々が暮らしていました。

しかし、町奉行がすべての人々を同じ制度で直接支配していたわけではありません。

町人地の行政は町奉行が担当し、武家地や寺社地には別の支配の仕組みがありました。

こうした複数の行政組織によって、江戸の都市生活が成り立っていたのです。

町奉行所は少人数でどう江戸を管理した?組織の仕組み

江戸は18世紀前半には総人口100万人を超えたと推定される大都市でした。

一方、町奉行所に所属する役人の数は、それほど多くありませんでした。

では、なぜ少人数で町人地の行政を担当できたのでしょうか。

与力・同心が奉行所の実務を担当した

町奉行の下には、与力と同心がいました。

与力は奉行所の中核的な実務担当者として、同心の指揮や行政・裁判の仕事を担当しました。

同心は、捜査や巡回、記録、各種の行政事務などを担いました。

明治大学博物館の資料では、南北の町奉行所にそれぞれ与力25人、同心120人が配置されていた時期が紹介されています。

ただし、同心の定員は時代によって変動しています。

与力と同心の違いについては、役職や仕事内容を整理した関連記事も参考になります。

町年寄・名主・月行事が町の運営を支えた

江戸の町政を考えるうえで重要なのが、町人による自治的な組織です。

町奉行所の役人だけで、何十万人もの町人の生活を直接管理していたわけではありません。

町奉行のもとには、町年寄や名主、月行事などが存在し、町の運営に関わっていました。

東京都公文書館によると、町触などの法令は、町奉行所から町年寄、年番名主、各町の名主などを通じて伝えられました。

このような仕組みによって、町奉行所の命令が江戸の多くの町々に伝えられていたのです。

町人地の行政は地域の人々との分担で成り立っていた

江戸の町人地では、町ごとに町政を担う人々がいました。

町奉行所は、こうした仕組みを利用して都市行政を進めていました。

そのため、少人数の与力・同心でも、大きな町人社会を管理することが可能になりました。

ただし、これは江戸の治安や行政に問題がなかったという意味ではありません。

犯罪や火災、貧困などの問題もあり、制度には限界がありました。

江戸はなぜ人口100万人の大都市になったのかでは、行政だけでなく、物流や水道、商業などの仕組みも含めて解説しています。

町奉行の給料はいくら?役高3000石の意味

江戸町奉行の給料を調べると、「3000石」という数字が出てきます。

しかし、この数字を現代の年収へそのまま換算することはできません。

1723年以降の役高は3000石だった

山川出版社の『日本史小辞典』によると、町奉行の役高は1723年(享保8年)以降、3000石とされました。

役高とは、役職に定められた基準となる石高です。

これは、町奉行になった人が、毎年3000石の米をそのまま現物で受け取ったという意味ではありません。

もともとの家禄が役高に満たない場合、在職中に不足分を補う仕組みもありました。

そのため、町奉行の収入は、家禄や役職に伴う支給制度などを確認する必要があります。

3000石を米の量に換算すると

1石を米約150kgとすると、3000石は次のように計算できます。

3000石 × 150kg = 約450,000kg

つまり、米約450トンに相当します。

しかし、これは石高を米の量へ置き換えた数字にすぎません。

町奉行が毎年450トンの米を直接受け取ったわけではありません。

また、現代の米価を掛けて算出した金額を、そのまま町奉行の年収と考えることもできません。

家禄・役高・役料は区別する必要がある

江戸時代の武士の収入には、家禄や役料など、さまざまな仕組みがありました。

用語主な意味
家禄武士の家に与えられる基本的な俸禄
役高役職に定められた基準となる石高
役料役職に伴って支給される俸禄や手当
知行主君から与えられた領地などに関する収入
蔵米幕府や藩の蔵から支給される米

町奉行の役高3000石は、単純な現代の給与額とは違います。

江戸時代の武士の給料については、石高を現代の年収に換算する考え方でも解説しています。

有名な町奉行は誰?大岡越前と遠山の金さん

町奉行という役職は、時代劇や講談などを通じて広く知られています。

特に有名なのが、大岡越前と遠山の金さんです。

ただし、物語で描かれる姿と、史実は必ずしも同じではありません。

大岡越前|大岡忠相は実在した南町奉行

大岡越前として知られる大岡忠相(おおおかただすけ)は、実在した江戸幕府の役人です。

1717年(享保2年)に南町奉行となり、1736年(元文元年)まで長く務めました。

町奉行として約20年間在職したことは、当時としては長期の勤務でした。

大岡忠相は、8代将軍徳川吉宗の享保の改革の時代に活躍しました。

町火消の整備や小石川養生所の設置など、都市政策にも関わっています。

ただし、時代劇で知られる名裁判の多くは、後世の講談や創作によるものです。

実際の大岡忠相が、物語に登場するすべての裁判を行ったわけではありません。

遠山の金さん|遠山景元は北町・南町の両方を務めた

遠山の金さんのモデルとして知られるのが、遠山景元(とおやまかげもと)です。

遠山景元は江戸時代後期に町奉行を務めた実在の人物です。

最初は北町奉行となり、その後、南町奉行も務めました。

ただし、時代劇で知られる桜吹雪の入れ墨を見せて裁く場面などは、史実としてそのまま確認できるものではありません。

時代劇は歴史上の人物をモデルにしていても、物語として脚色されている部分があります。

時代劇の町奉行と実際の仕事は違う

時代劇では、町奉行が自ら事件の真相を明らかにし、お白洲で悪人を裁く場面が目立ちます。

しかし、実際の町奉行所には多くの部署があり、与力や同心がそれぞれ専門的な仕事を担当していました。

また、町奉行には行政や商業、防火などの仕事もありました。

そのため、町奉行を理解するには、裁判だけでなく、江戸の町全体を運営する役職だったことに注目する必要があります。

町奉行とほかの奉行は何が違う?

江戸幕府には、町奉行以外にもさまざまな奉行がいました。

特に、町奉行・寺社奉行・勘定奉行は「三奉行」と呼ばれました。

それぞれの担当を比較してみましょう。

町奉行|江戸の町人地を担当

江戸町奉行は、江戸の町人地の行政・司法・警察などを担当しました。

町人の生活や商業、犯罪、訴訟などに関わる仕事が中心でした。

ただし、武家地や寺社地は原則として別の支配系統に属していました。

寺社奉行|寺院や神社に関する行政を担当

寺社奉行は、寺院や神社などに関わる行政・司法を担当する役職でした。

町奉行よりも広い範囲の寺社関係の問題を扱う場合がありました。

ただし、寺社奉行と町奉行の仕事が完全に切り離されていたわけではありません。

事件の内容によって、複数の役職が関わる場合もありました。

勘定奉行|幕府の財政や直轄地の行政を担当

勘定奉行は、江戸幕府の財政や幕府直轄地の行政などを担当しました。

年貢や財政、直轄地に関する業務などが重要な仕事でした。

また、勘定奉行には司法に関わる仕事もありました。

そのため、現代の財務大臣と完全に同じ役職ではありません。

三奉行の違いを比較

役職主な担当現代に例えると
町奉行江戸の町人地の行政・司法・警察都市行政・警察・裁判の責任者
寺社奉行寺社に関する行政・司法宗教法人関係の行政・司法を組み合わせた役割
勘定奉行幕府の財政・直轄地の行政など財政・地方行政の責任者

※現代の役職との比較は、業務の一部をわかりやすく置き換えたものです。

このように、三奉行はそれぞれ異なる分野を担当しながら、幕府の重要な政治・司法上の仕事にも関わっていました。

町奉行についてよくある質問

町奉行とは簡単に言うと何?

江戸時代に、江戸などの都市行政や裁判、治安維持などを担当した幕府の役職です。

特に江戸町奉行は、江戸の町人地を中心に町政を統括しました。

町奉行は今で言うと何?

現代の行政幹部・警察幹部・裁判官の役割を併せ持つような存在です。

ただし、江戸時代には行政と司法が現在のように分離されていなかったため、現代の一つの役職とは一致しません。

南町奉行と北町奉行はどちらが偉い?

基本的には、南町奉行と北町奉行に上下関係があったわけではありません。

どちらも江戸の町政を担当する町奉行であり、月番制で業務を分担していました。

南町奉行と北町奉行は担当区域が違ったの?

いいえ。

江戸の南側と北側を分けて担当していたわけではありません。

新規の訴訟の受付などを月番制で交代し、一部の商業分野では業種による分担もありました。

町奉行と与力はどちらが上?

町奉行が上です。

町奉行は奉行所の責任者であり、与力はそのもとで実務や同心の指揮などを担当する役人でした。

町奉行の給料は何石?

1723年以降、江戸町奉行の役高は3000石でした。

ただし、役高は役職に定められた基準となる石高であり、毎年3000石の米を直接受け取るという意味ではありません。

町奉行は何人いたの?

基本的には南町奉行と北町奉行の2人です。

ただし、1702年から1719年までは中町奉行も置かれ、3人体制となっていました。

大岡越前は本当に町奉行だったの?

はい。

大岡忠相は実在した人物で、1717年から1736年まで南町奉行を務めました。

ただし、時代劇に登場する名裁判の多くは、後世の創作や脚色を含みます。

遠山の金さんも町奉行だったの?

はい。

モデルとなった遠山景元は実在の町奉行で、北町奉行と南町奉行の両方を務めました。

ただし、ドラマや講談の内容がすべて史実というわけではありません。

町奉行は江戸にしかいなかったの?

いいえ。

江戸のほか、京都や大坂などにも町奉行が置かれました。

ただし、都市や時代によって職務や組織には違いがありました。

まとめ|町奉行は江戸の行政・裁判・治安を担った重要な役職

町奉行は、江戸時代に都市行政や裁判、治安維持などを担当した幕府の役職です。

特に江戸町奉行は、江戸の町人地を中心に、行政・司法・警察・防火などの仕事を幅広く担当していました。

現代に例えると、行政幹部・警察幹部・裁判官の役割を組み合わせたような存在です。

ただし、現代の制度とは権限や役割の分担が異なります。

また、南町奉行と北町奉行は、江戸を南北に分けて担当していたわけではありません。

原則として月番制で新規の訴訟の受付などを交代し、非番の月には継続案件などを処理していました。

町奉行の下では、与力・同心がさまざまな実務を担当し、町年寄や名主などの町人による自治的な仕組みも行政を支えていました。

町奉行を理解するポイントは、犯罪者を裁く人というだけではなく、江戸の町人社会を運営する重要な責任者だったことです。

時代劇で大岡越前や遠山の金さんが登場したときは、裁判の場面だけでなく、実際には町の行政や防火、商業などにも関わっていたことを思い出してみてください。

参考資料

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